亀山で生まれ、大垣で活躍した飯沼慾斎
飯沼慾斎(1783–1865)
飯沼慾斎(いいぬま よくさい)は、1783年(天明2年)、亀山の西町に生まれました。父は西村信左衛門守安、慾斎はその次男です。幼名は本平(もとひら)、のちに守之(もりゆき)、さらに長順(ながより)と改名しました。「慾斎」は号です。
父・信左衛門守安は近江の出身で、美濃大垣新町において米屋を営み、町年寄を務めるほどの豪商でした。しかし事業に失敗し、多額の負債を抱えて亀山に移り住みます。亀山では、弟の西村源兵衛守城を頼り、青木門近くの店で働きましたが、生活は楽ではありませんでした。
母は子どもたちの将来を案じ、せめて本平だけでも大垣の実家に預けようと考えます。実家の竹鼻町では、兄の宝来屋飯沼貞九郎長意が膏薬の製造・販売で成功していました。しかし父はこれに反対します。守安が大垣を去った経緯から、飯沼家との関係はすでに疎遠になっていたと考えられます。
それでも本平は、12歳のとき父に告げず単身で大垣へ向かいました。その後、名古屋の本草学者 伊藤圭介 とともに菰野へ薬草採集に訪れることはありましたが、亀山へ戻った記録はなく、西村家との関係は回復しなかったようです。
長意は本平に商才よりも学問の才を見出し、医師となっていた弟・長顕のもとで学ばせました。さらに18歳で京都へ上り、朝廷侍医の福井榕亭に師事します。22歳で大垣に戻ると、長顕の娘・志保と結婚し、叔父の養子となって飯沼姓を継ぎ、名を長順と改めました。大垣俵町で開業し、医師としての道を歩み始めます。
この頃、京都の本草学の大家 小野蘭山 の門下にも入り、薫陶を受けました。しかしやがて蘭方医学にも強い関心を抱くようになります。28歳のとき、大垣の蘭学者・江馬蘭斎の紹介で江戸へ遊学し、松阪出身の蘭方医で宇田川家を継いでいた 宇田川榛斎 に師事しました。
榛斎の門下には、緒方洪庵 や 箕作阮甫 など、後に幕末から明治にかけて活躍する俊英たちが集っていました。なお榛斎自身は、蘭学の先駆者 大槻玄沢 に学んでいます。
江戸で蘭学を修めて大垣に帰郷した慾斎は、蘭方医として高い評価を受け、やがて藩医となりました。45歳のときには、大垣藩においてお目見え・苗字帯刀を許される身分となります。
50歳で家督を妻の弟・飯沼長栄に譲り、自らは別荘「平林荘」に隠居。本草学研究に専念しました。以後およそ30年にわたり植物研究に没頭し、その集大成として著したのが代表作『草木図説』です。
『草木図説』は、スウェーデンの博物学者 カール・フォン・リンネ の分類法(リンネ分類法)を採用し、日本で初めて体系的に編まれた本格的植物図鑑として高く評価されています。
平林荘の庭園には、日本各地の植物のみならず外国の植物も含め数百種が栽培されていました。慾斎は地元の伊吹山をはじめ各地へ自ら赴き、植物採集を行っています。現在も多くの標本が残されており、その学術的価値はきわめて高いものです。
また、長男の飯沼恒斎(のち守成)は医師・蘭学者として活動し、父の研究を支えて『草木図説』の出版にも尽力しました。三男の興斎は江戸で宇田川榕菴に師事し、のちに宇田川家を継いでいます。
享保の改革と薬草国産化の動き
日本は古代、663年の白村江の戦いで敗北して以降、朝鮮半島における鉄資源の権益を失い、長く鉄不足に悩まされてきました。また衣料についても、綿花栽培が定着するまでは木綿を自給できず、庶民は麻(大麻)や苧麻(からむし・ちょま)のほか、「榀布」「葛布」「芭蕉布」などを用いていました。鉄や木綿は主に海外から輸入され、その対価として多くの銀が国外へ流出していました。
しかし室町時代中期から江戸時代初期にかけて、砂鉄を原料とする「たたら製鉄」が発達し、足踏み天秤鞴を連続させた大鞴による屋内操業が可能となりました。これにより鉄の生産量は飛躍的に増大します。また綿花についても、従来のインド綿ではなく中国綿の栽培が成功し、木綿の国内生産が拡大しました。その結果、鉄や木綿の輸入は次第に減少していきました。
ところが、社会が安定し商業が発展すると、商人が力を持ち、衣装も派手になって絹の輸入が増える他、人々は医療にも目を向けるようになります。医師にかかる人が増え、中国経由で輸入される朝鮮人参(高麗人参)などの高価な薬草の需要が高まりました。一方で、主要な銀山であった生野銀山の産出量は減少傾向にあり、再び貿易収支の悪化が問題となります。
この状況に対し、江戸幕府は薬草の国産化政策へと舵を切りました。これを主導したのが、第八代将軍 徳川吉宗 です。吉宗は紀州藩主時代から薬草研究に関心を持っていたとされ、将軍就任後、その政策を本格化させました。
吉宗のもとには、紀州(松阪)系の人脈を中心に、江戸の知識人たちが集まりました。高麗人参の国産化に尽力した 田村藍水 や、救荒作物として甘藷(さつまいも)の普及に努めた 青木昆陽 らがその代表です。彼らは海外から薬草の種子や苗木を取り寄せて栽培を試みるとともに、日本国内にも代替となる植物がないか全国的な調査を行いました。
幕府は小石川御薬園などで栽培法を研究し、増産に成功すると、約三百の諸藩に種や苗を配布して各地での栽培を奨励しました。これは単なる産業振興策にとどまらず、医師・本草学者・行政が連携する国家的な科学事業ともいえるものでした。
薬草国産化の取り組みは、やがて西洋医学・博物学への関心とも結びついていきます。本草学の基本文献とされたのは、明代の 李時珍 が著した『本草綱目』でした。日本の学者たちはこれをもとに国内の植物を同定していましたが、同じ植物が西洋ではどのように効能を説明され、どの症状に用いられているのかにも関心を広げます。
参照された西洋書には、オランダ語で伝わった植物書、たとえば ヨハネス・ジョンストン の『ジョンストン植物図譜』や、ロベル・ドドエンス の『ドドネウス本草書(Cruydt-Boeck)』などがありました。
とりわけ『ドドネウス本草書』は内容が詳しく、吉宗の命を受けた青木昆陽や野呂元丈が蘭語を学び、その解読に取り組みました。これが日本における本格的な蘭学の出発点の一つとされています。
さらに、小石川養生所の医師 桂川甫周 らは蘭書を活用し、日本で雑草と見なされていた植物が、西洋では重要な薬草として扱われていることを見出しました。こうして西洋の知識によって再評価された薬草の中には、日本で古くから用いられてきた民間薬を科学的に裏付けるものも少なくありませんでした。
享保の改革における薬草国産化政策は、貿易赤字の解消という経済的目的から出発しましたが、その過程で本草学と蘭学を結びつけ、日本の医学・薬学、さらには近代科学の発展へとつながる重要な一歩となったのです。
植村 政勝
植村政勝(うえむら まさかつ)は、号を新甫、通称を佐平次といい、隠密としても活動した本草学者です。紀伊藩領・伊勢国大津杉村(現在の三重県松阪市)の郷士・植村政恭の子として生まれました。
宝永7年(1710)、紀伊藩主 徳川吉宗 に召し出され、紀州藩の御庭方となります。のちに吉宗が将軍に就任するとこれに従って江戸へ入り、幕府御庭番となりました。
享保5年(1720)、26歳のときに幕府駒場薬園の開設にあたり園監に任じられます。駒場一帯(現在の都立駒場高校周辺)は将軍家の鷹狩場で、御用屋敷が置かれ、その一角に薬園が設けられました。政勝は各地で薬草を探索する採薬使を統括し、自らも幕府採薬使として諸国を巡察します。宝暦4年(1754)に退職するまで、30年以上にわたり全国の草木を実地に踏査しました。
最終的な地位と待遇
最終的な役職は「吹上添奉行格」。将軍に直接謁見できる御目見得の身分で、乗馬も許された旗本格でした。
俸禄は150俵・五人扶持(石高換算で約60石)に達しています。
紀州藩で御庭方に採用された当初は三人扶持(約5石)程度であったとみられ、幕府御庭番の平均が20石前後であったことを考えると、政勝は異例の出世を遂げた人物といえます。
比較すると、のちに紀州藩薬園を管理した本草学者・畝田翠山は20石扶持で、書籍購入にも苦労し、地元商人の支援を受けながらも著作は一冊のみの刊行にとどまりました。飯沼慾斎もまた、叔父の経済的援助を受けて『草木図説』を出版しています。
それに対し、幕府採薬使となれば、身分を超えて能力次第で研究費が支給され、幕府御用として全国調査を行い、その成果を公的にまとめることも可能でした。薬草国産化政策のもとで展開された採薬事業は、きわめて恵まれた国家的科学プロジェクトであったといえるでしょう。
植村家の継承
政勝退任後は、父に同行して全国を歩き採薬技術を叩き込まれた長男・正勝(佐源次)が跡を継ぎ、幕府採薬使として活動しました。蝦夷地の調査にも赴いています。
幕末には五代目・植村政春(左平太)が本草学者として知られ、駒場薬園の管理や採薬に従事しました。植村家は「御庭番」の家系でありながら、「幕府専属の本草学者・薬草栽培家」として幕末まで存続し、150俵五人扶持の家格を維持しました。
また、初代政勝が作成した地図や記録を基に、代々が数十年ごとに同じ地域を再調査し、環境の変化や新たな薬草の有無を確認していたと伝えられています。これは近代的な定点観測にも通じる姿勢といえるでしょう。
主な著作
『植村左平次薬草御用留』
『採草風土記』
『採薬記抄録』
『諸国奇跡』
『諸国珍変採薬記』
『諸州奇跡談』
『諸州採薬記』
『植村氏蒙台命諸国巡行御書上写』
退任翌年の宝暦5年(1755)には、長年の巡察成果をまとめた『諸州採薬記』を幕府に献上しました。しかし、この書は長く公刊されませんでした。政勝の諸国巡察は、採薬の名目だけでなく隠密としての任務も帯びていたため、その内容が公にされなかったとも考えられています。
丹羽正伯(にわ しょうはく)
丹羽正伯は、伊勢松坂の医師・丹羽徳応の長男として元禄4年(1691)に生まれ、宝暦6年(1756)に66歳で没しました。
京都で本草学者 稲生若水 に師事し、医学と本草学を修めたのち、松坂に戻って家業の医業を継ぎました。
幕府採薬事業への参加
享保5年(1720)、八代将軍 徳川吉宗 の招きにより江戸へ出仕します。吉宗は紀州藩主時代からの側近であった植村政勝を登用し、さらに医師で本草学者であった丹羽正伯を呼び寄せ、薬草調査と国産化の具体的構想を練り始めました。
享保6年(1721)には、正伯を中心に全国から集められた薬草標本の鑑定・整理が本格化します。翌享保7年、正伯は御医師並に任ぜられ幕府医師となり、下総国滝台野(現在の千葉県船橋市)に設けられた薬園の管理責任者を兼ねました。
なぜこの時期に薬草国産化だったのか
鉄や木綿の国産化が進んだ一方で、社会の安定と経済発展により生活は豊かになり、絹織物の輸入が増加しました。享保2年には倹約令が出され、武士の絹着用が制限されましたが、輸入超過は容易に止まりませんでした。
さらに、朝鮮人参(高麗人参)をはじめとする高価な薬草の輸入も増加しており、貿易額全体の一部とはいえ、銀の流出は幕府にとって深刻な問題でした。こうして薬草の国産化は国家的課題となったのです。
また、享保5年には、キリシタン禁制以来制限されていた洋書輸入について、「漢訳洋書」に限り規制が緩和されました。実学(科学技術)振興を掲げた吉宗の政策により、海外の農学・植物学の知識を採薬事業に活かす環境が整えられたことも重要でした。
理論の正伯、現場の政勝
山野を駆け巡り、優れた観察力と行動力で植物を発見する植村政勝に対し、正伯は膨大な文献知識をもとに、それが新種か否か、薬効や活用法は何かを鑑定・体系化しました。いわば「理論」と「現場力」の融合であり、両者は江戸時代の国家的バイオ資源開発を担ったといえます。
高麗人参国産化への挑戦
とりわけ重要であったのが、高麗人参の国産化でした。当時の朝鮮では、高麗人参は国家的輸出品であり、加工品以外の国外持ち出しは厳禁とされ、種子や苗の流出は固く禁じられていました。
吉宗は正伯に対し、「費用はいとわないから、生きた種を入手せよ」と命じたと伝えられます。正伯は対馬藩を通じて交渉を重ね、最終的に発芽能力を持つ種子を入手することに成功しました。
しかし、種を得ても日本の風土で栽培することは容易ではありませんでした。正伯は中国・朝鮮の古典文献を精査し、「人参は直射日光を嫌い、適度な湿潤土壌を好む」という条件を導き出します。その理論に基づき、政勝らは日光や江戸近郊の薬園で覆い屋を設けるなど試行錯誤を重ねました。
そして享保14年(1729)、ついに日光山中で日本産高麗人参が開花・結実したと報告されます。この成功は幕府に大きな衝撃を与えました。
その後、高麗人参研究は正伯の弟子である 田村藍水 に引き継がれます。藍水は幕府採薬使として全国調査を継続し、その弟子には 平賀源内 もいました。薬草国産化政策が、日本近代科学の萌芽へとつながっていく様子がここにも見られます。
昇進と評価
正伯も採薬使としての出発は三人扶持(約5石)でしたが、最終的には200俵(約67石)にまで加増されました。150俵であった植村政勝を上回る待遇です。
これは高麗人参国産化への貢献に加え、師・稲生若水の遺志を継ぎ、本草学の大著『庶物類纂』の編纂を完成させた功績が評価されたためと考えられています。
正伯に子息があったかは明確ではありませんが、採薬事業や薬園管理は田村藍水ら門弟へと引き継がれました。
主な著作
『救民薬方編』
『佐渡採薬記』
『庶物類纂』編
『丹羽正伯物産日記』
『普救類方編』
野呂元丈
野呂元丈は、伊勢国多気郡波多瀬村に、 高橋善太郎の次男として元禄6年(1694)に生まれました。叔父で医師の野呂三省の養子となり、野呂家を継ぎます。宝暦11年(1761)、66歳で没しました。
20歳で京都に上り、医学を 山脇玄修 に、本草学を 稲生若水 に学びます。
享保5年(1720)、同じく松阪出身で若水門下の丹羽正伯の推挙により、幕府採薬使として江戸に出仕しました。
蘭学への転機
元文4年(1739)に幕府医官となり、翌元文5年(1740)には将軍 徳川吉宗 の命を受け、青木昆陽 とともに長崎出島のオランダ商館長・商館医と面会し、オランダ語を学びました。
寛保元年(1741)から延享4年(1747)まで寄合医師を務めるかたわら、西洋博物学の吸収に努めます。
オランダ人から、当時ヨーロッパで高い評価を受けていた植物書、ロベル・ドドエンス の『Cruydt-Boeck(ドドエンス本草書)』の存在を知り、その内容を紹介・解説した『阿蘭陀本草和解』を著しました。
これは日本最初期の本格的な西洋博物学紹介書であり、日本における西洋植物学(蘭学)の夜明けを告げる書と評価されています。
実地調査にも参加
元丈は机上の翻訳者ではありませんでした。享保年間には、植村政勝や丹羽正伯らとともに日光・伊豆・箱根など各地に赴き、
「西洋の書物に記された植物は、日本にも存在するのか」
という検証を実地で行っています。文献と実地調査を結びつける姿勢は、近代科学的な方法論の萌芽ともいえるものでした。
吉宗の人材配置
享保期の薬草国産化事業において、吉宗は三者を次のように役割分担していたと考えられます。
植村政勝 —— 現場力・体力・隠密性(とにかく見つけ出す)
丹羽正伯 —— 鑑定・理論・和漢本草の知識(正体を見極め体系化する)
野呂元丈 —— 翻訳・最新西洋知識・蘭学(世界標準と比較する)
この三位一体の体制により、享保期の採薬事業は単なる経済政策を超え、日本の学術水準を押し上げる国家的科学事業へと発展しました。
家格と後継
元丈も当初は三人扶持(約5石)からの出発でしたが、最終的には丹羽正伯・田村藍水と同じ200俵取りとなります。
彼が築いた「200俵・幕府医師」の家格は子孫に受け継がれました。
二代目・野呂元恭は父の跡を継いで幕府医師となり、蘭学研究を継承します。その後も野呂家は幕末まで奥医師や医学館関係者として幕府に仕え続けました。
一族の流れをくむとされる医療法人野呂医院が、現在も松阪に残っています。
主な著作
『阿蘭陀禽獣虫魚図和解訳』
『阿蘭陀本草和解訳』
『狂犬咬傷治法』
『狂犬薬治方採薬筆録』
『野呂元文採薬手翰』
『本草綱目記聞』
『救荒本草並野譜』
『御府阿蘭陀本草』
総括
植村政勝が「足」で集め、丹羽正伯が「理」で整え、野呂元丈が「世界」と結びつけた――。
享保の薬草国産化政策は、この三者の協働によって、日本の本草学を和漢の枠を超えた国際的視野へと押し広げました。ここに、近代科学へとつながる大きな一歩を見ることができます。